祇園甲部歌舞会 公式ウェブサイト

ご挨拶

毎年、桜が咲く頃、「都をどり」を楽しみにしてくださる方も多いと思います。今年は、残念乍ら、皆様に華やかな舞台をご覧いただくことができませんでした。なんとも悔しいことですが、祇園甲部歌舞会の芸妓、舞妓一同、今も皆様に再び(まみ)える日を願って日々、稽古に励んでおります。
来春には、より良き舞台を御覧いただけますよう、皆々様におかれましても、どうか、相変わりませず御支援の程、伏して御願い申し上げます。

令和2年8月12日

京舞井上流家元 井上 八千代

京舞井上流家元 井上 八千代

平成31年南座新開場記念 都をどり

平成31年の「都をどり」は、平成30年11月に耐震改修工事を終え、新開場となった南座において上演いたしました。都をどりの本拠地、祇園甲部歌舞練場は耐震改修のため平成28年秋より休館しておりますが、外の劇場をお借りして上演を続けております。

はじめきのいろどり

  • 第一景解説・歌詞
  • 第二景解説・歌詞
  • 第三景解説・歌詞
  • 第四景解説・歌詞
  • 第五景解説・歌詞
  • 第六景解説・歌詞
  • 第七景解説・歌詞
  • 第八景解説・歌詞

第一景 置歌 -おきうた- (長唄)

◆解説

 「置歌」は、全景を説明する序曲の部分です。京舞は江戸時代から公家の御殿で演じられてきたため、都をどりのために建築された祇園甲部歌舞練場は、女院御所や公家御殿の特色があります。本舞台に張り詰めた銀襖は公家御殿のしつらいで、毎年、幕開けはこの銀襖の前で舞います。
 「御代始歌舞伎彩」と称した平成31年の舞台は、京都恵美須神社から、法住寺、四条河原、桂離宮、祇園茶屋と南座周辺の名所および皇室ゆかりの場所を巡って舞い進み、桜が満開の大覚寺でフィナーレを迎えます。なお、各景に物語上の連続はありません。
 「都をどりはー」「ヨーイヤサー」のかけ声とともに、華やかに登場する芸妓舞妓たち。揃いの藍地の着物が銀襖に美しく映えます。肩口から咲き誇る枝垂れ桜は、初演当時からの伝統的な図柄です。
 平成31年の都をどりは、南座での公演となりましたが、銀襖からの舞台展開は例年と変わらぬ華麗さです。

◆歌詞

鴨川の風やはらかき春の陽に、柳の緑輝きて、初恵美須福招きたる笹の葉に、響く歌声今様の、人の心を映したり、かぶく舞姫出雲の阿国、名古屋山三を恋ひ慕ふ、藁稭の次々寄せる縁にて、長者となりし大団円、桂離宮の御幸道、霰こぼしに照る紅葉、雪散る祇園の茶屋座敷、忠臣蔵に想ひ馳せ、芸妓舞妓の舞の袖、大覚寺桜競ひて咲き誇る、都をどりは華やかに、

背景 銀襖

背景 銀襖

第二景 初恵美須福笹配 -はつえびすふくささくばり- (長唄)

◆解説

 恵美須神社は、大和大路の西側にあり、もともと建仁寺の鎮守社でした。明治時代の神仏分離によって一時的に分けられましたが、今日では、両者にはさまざまな交流が行われています。創祀にまつわる伝説として、正徳4年(1714)刊の地誌『都名所車』には、次のような話が記されています。栄西禅師が中国に渡る航海中のこと、突然の嵐に見舞われますが、禅師は少しも騒がず、海に向かって礼拝します。どこからともなくゑびすの神体が現れ、船の舳先に立つと、波風はたちまちにおさまりました。その御姿をうつしとどめ、鎮守として祀ったのが恵美須神社の始まりといいます。本社では、現在、1月8日から12日までの5日間にわたり、十日ゑびす大祭(通称・初ゑびす)が行われ、商売繁昌・家運隆昌を祈願した吉兆笹の他、福俵、福熊手、宝船などの縁起物が授与されます。11日の残り福祭には、祇園町の舞妓が福笹・福餅の授与に奉仕します。福笹配りで都をどりのめでたい幕開けといたします。

◆歌詞

大和大路の西側に、建仁寺をば守り給ふ、恵美須神社のありがたさ、唐国に渡らんとする栄西禅師の志、船路の嵐を鎮め給ふ、恵美須の御姿移したる社の威徳あな尊、正月の福笹配り、吉兆の重なる福の福俵はた宝船、めでたき歳の初めなり

背景 恵美須神社

背景 恵美須神社

第三景 法住寺殿今様合 -ほうじゅうじどのいまようあわせ- (長唄) 別踊

◆解説

 法住寺は、藤原為光が永祚元年(989)に創建した寺で、三十三間堂近くにありましたが、後に焼失します。応保元年(1161)、後白河上皇がその跡地に院御所を営み、法住寺殿と号しました。平安時代末期に流行した今様に夢中になった後白河院は、今様の歌詞を集めた『梁塵秘抄』を編みました。平成31年は、『梁塵秘抄』がほぼ完成した嘉応元年(1169)から数えて850年に当たります。法住寺殿は遊女や傀儡など今様の歌い手が集まる場にもなりました。『梁塵秘抄口伝集』巻10は、後白河院が自らの今様生活を振り返った自伝的な文章ですが、そこには、彼女たちの逸話もふんだんに記されています。
 承安4年(1174)9月には、法住寺殿に公卿殿上人を集め、十五夜にわたる今様合が行われました。承安の今様合は男性貴族が歌の技量を競ったものでしたが、ここでは、白拍子や遊女たちに登場してもらい、華やかな歌舞をご堪能いただきたいと思います。

◆歌詞

平安の都にはやる今様に、心を尽くす後白河、帝の御所は法住寺殿、常々参る者達は、巫女白拍子遊女ども、歌沙汰談義に花咲かす、遊女の好むもの、雑芸鼓小端舟、あこ丸のていとんとうと打つ鼓、春菊若菊舞ひ澄ます、君が愛せし綾藺笠、落ちて漂ふ川中に、それを求むとせしほどに、さらさらさやけの夜は明けぬ、かしこくも帝に伝へし今様の、末は頼もし、今ははや、心も晴れてうれしやと、乙前の清らなる声澄みのぼる、仏は常にいませども、うつつならぬぞあはれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ、

背景 法住寺

背景 法住寺

第四景 四条河原阿国舞 -しじょうがわらおくにのまい- (長唄) 別踊

◆解説

 出雲の阿国は、歌舞伎の始祖とされる女性芸能者です。出自、生涯ともに明らかではありませんが、『当代記』慶長8年(1603)4月の記事によれば、「かぶき躍」と称して、出雲の巫女である「国」が、奇抜なファッションの男姿で登場し、茶屋の女と戯れる様子を演じて人々の賞賛を得たといいます。現在、南座の西側には「阿国歌舞伎発祥地」の碑が建てられており、慶長8年に阿国が、この辺り鴨河原で、初めてかぶきをどりを披露した旨の説明板があります。史実としては、四条河原における歌舞伎興行の初見は、『孝亮宿禰記』慶長13年2月20日条の「女歌舞伎」ですが、第四景は、都をどり公演会場の南座にちなみ、四条河原を取り上げて、『国女歌舞妓絵詞』に基づいて作りました。阿国とともに、歌舞伎を創始したと伝えられる名古屋山三は、死後、亡霊となって阿国の前に現れ、二人は昔を懐かしみながら歌舞伎踊りを踊ります。時過ぎて、山三の霊は名残を惜しみつつ冥府に帰って行くのでした。

◆歌詞

故郷や、出雲の国を後に見て、阿国は都にのぼりたり、人の耳目を驚かす、かぶき踊りを始めけり、はかなしや、心にかける弥陀の名号、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、念仏の声に引かれて、参りたり、なふなふ阿国、物申さん、我をば見知り給はずや、いやこはいかに、山三様、この世には亡き人なるに、うつつにまみえ給ふかや、我も昔の御身の友、馴れしかぶきを今とても、忘るることのあらざれば、懐かしさにぞまかり出づる、ありし昔の一節を、歌ひていざやかぶかん、淀の川瀬の水車、誰を待つやらくるくると、従ふ菊も白萩も共になびかす舞の袖、かぶき踊りも時過ぎて、山三は後ろを振り返り振り返り、いづくともなく失せにけり、草枕、八千夜添ふとも山三様、名残惜しきは限りなし、

背景 洛中洛外

背景 洛中洛外

第五景 藁稭長者出世寿 -わらしべちょうじゃしゅっせのことぶき- (浄瑠璃) 別踊

◆解説

 第五景は、藁稭長者の昔話を翻案した景です。この昔話のもととなっているお話は、すでに平安時代末に編まれた説話集『今昔物語集』巻16の28話に見えています。
 一人の貧しい青年が、観音様のお告げに従い、寺を出て最初に手にした藁稭を大事に持って歩いて行きます。飛んできた虻を藁稭に結びつけて、さらに進み、以下、さまざまな人と行き合ううちに、虻を結びつけた藁稭を蜜柑と交換し、蜜柑を反物と交換し、反物を馬と交換し、最後は、馬を田や米と交換することになって、裕福な暮らしを手に入れる、という説話です。『今昔物語集』より後に成立した『宇治拾遺物語』では、田や米だけでなく、屋敷までも手に入れることになっています。後世の昔話では、さらに美しい娘と結婚する、というパターンもあります。ここでは、虻を蜻蛉に変え、反物と馬を省略したスピーディーな展開としました。明るくめでたいストーリーをお楽しみください。

◆歌詞

今は昔、長太と申す冠者ありけり、働けど働けど、貧しき身の上いかがせん、寺に籠りて観音に、念じて得たる夢の告げ、覚めて後、まづ手に触るる物をただ、離さず持ちて行くべしと、はつと驚きありがたや、勇むる長太は堂を出で、そのままばつたり倒れけり、神も仏もあるものか、情けなきぞと立ち上がる、ふと見るその手に握られし、はかなき藁稭一本を、捨てんとすれど観音の、告げを思ひて留まりぬ、歩む長太の頭の上、つと止まれるは蜻蛉ぞ、居よ居よ蜻蛉、さて居たれ、稭に結びて飛ばし行く、行き合ふ童直吉が、蜻蛉欲しがりどこまでも、慕ひ来るに困じ果て、渡せば蜜柑をさし出す、次に行き合ふ一人の乙女、喉の渇きに苦しみて、道の端にぞつい居たる、一足も行かぬ風情なり、長太は蜜柑を皆ながら、いざ召せとこそさし出だせば、あらありがたや、乙女は息を吹き返す、その名をちよと名乗りつつ、難儀を救ひし御方様、我らが屋敷へ来たり給へ、長太とちよは打ち解けて、足取り軽く歩み行く、たどり着きたるお屋敷は、村一番の長者なり、出で来りたる父の兼蔵娘の話にうなづきて、喜び長太の手をば取る、奥に居たりし母のあや、これも何かの御縁とて、婿に入りたる長太の出世、俄かに開く、祝ひの宴、酒の肴に何よけん、松茸平茸海老鮑、いざ一献と酌み交はす、人は藁稭長者とて、語り伝へてもてはやす、めでたき出世の物語、

背景 野中の道

背景 野中の道

背景 長者屋敷

背景 長者屋敷

第六景 桂離宮紅葉狩 -かつらりきゅうもみじがり- (長唄)

◆解説

 桂離宮は、元和元年(1615)頃、八条宮初代智仁親王が桂川西岸の桂の里に草創した別荘です。智仁親王の急逝で、別荘造営は中断しますが、親王の皇子で八条宮家(のち桂宮家)を継いだ智忠親王、第三代穏仁親王らが増改築を加えていきました。穏仁親王の父・後水尾天皇は、寛文3年(1663)に、上皇としてこの別荘を訪れています。桂宮家が絶家して、別荘は、明治16年(1883)より宮内庁所轄として、「桂離宮」と呼ばれるようになりました。桂離宮は、桂川から水を引き入れた池を中心に、数寄屋造を基調とした古書院・中書院・楽器の間・新御殿からなる御殿群と、月波楼・松琴亭・笑意軒・賞花亭の四つの茶屋、外腰掛(松琴亭の待合所)、持仏堂である園林堂など、趣向を凝らした建物が庭に点在しています。後水尾上皇をお迎えするために造られた御幸門から続く御幸道には、桂川で採取した小石が密に敷き詰められています。その霰こぼしの道に映える紅葉を背景にした総をどりです。

◆歌詞

桂川、清き流れを引き入れて、ささら波立つ池の端、唐紅に水くくる秋の紅葉のつづれ織、数寄屋造りの美しき御殿並びぞめでたやの、四つの茶屋の名麗しき、月の波はた松の琴、笑ひて花を賞でよとか、園林堂なる持仏堂、後水尾の帝を迎へし御幸道、霰こぼしに照り映えて、紅葉は今ぞ盛りなりける、

背景 桂離宮

背景 桂離宮

第七景 祇園茶屋雪景色 -ぎおんちゃやのゆきげしき- (長唄) 別踊

◆解説

 新春から春・夏・秋とめぐって来た都をどりの舞台の季節は、第七景で冬となります。祇園らしい、華やかな中にもしっとりとした茶屋の座敷で、芸妓がはんなりと舞います。公演会場の南座にちなみ、歌舞伎の12月の演目として代表的な「仮名手本忠臣蔵」を意識した歌詞にしました。周知のように、「仮名手本忠臣蔵」は、元禄15年(1702)の赤穂浪士による仇討事件を劇化したものですが、物語の設定は、南北朝時代の騒乱を描いた『太平記』に移されているため、登場人物の名前は『太平記』の人物名にかえられています。
 大星由良之助(史実では大石内蔵助)以下の四十七士が、苦心の末、主君・塩冶判官(史実では浅野内匠頭)の敵・高師直(史実では吉良上野介)を討ち取ったのは、12月の雪の日でした。茶屋の座敷で物思う風情の芸妓は、ひいきの歌舞伎役者が演じる忠臣蔵の一場面に想いを馳せているようです。姐さんの心を知ってか知らずか、舞妓たちはあどけなく舞い遊ぶのでした。

◆歌詞

はらはらと雪の舞ひ散る祇園町、茶屋の座敷は、火灯し頃になりにけり、かにかくに祇園は恋し、寝る時も枕の下を水の流るる、伝え聞く忠臣蔵の物語、一力茶屋の手鏡に、映るは大事の誓ひ文、恋文とばかり思ひしぞ、ばつたと落とす簪に、見交はす目と目、恋の初めとなりにける、恋よ恋我中空になすな恋、黒髪の乱れも知らずうち臥せば、まづかきやりし人ぞ恋しき、

背景 座敷

背景 座敷

第八景 大覚寺桜比 -だいがくじさくらくらべ- (長唄)

◆解説

 大覚寺は京都市西方の嵯峨野にある門跡寺院で、法親王が歴代の住持を務めました。鎌倉時代に、後宇多法皇らの仙洞御所がおかれ、嵯峨御所とも呼ばれます。もとは、嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院は、貞観18年(876)に寺院に改められます。嵯峨天皇皇女である淳和天皇皇后正子が、淳和天皇の第二皇子恒寂法親王を開山として開創しました。本堂にあたるのが五大堂で、嵯峨天皇が弘法大師に命じて離宮内に造らせた、日本で初めて五大明王を祀った持仏堂「五覚院」の流れを汲みます。
 境内を大きく占めるのが大沢池です。人造の池泉としては、日本最古とされ、周囲約一キロは桜の美しい散策路になっています。また、大覚寺には華道の濫觴と伝える嵯峨御流が伝わっています。嵯峨天皇が、ある秋の日、大沢池の菊ケ島に自生していた野菊を手折り、殿上の花瓶に挿されたのに始まると言います。まさに花の寺、大覚寺の満開の桜が華やかなフィナーレを飾ります。

◆歌詞

嵯峨野の里の大覚寺、大沢池に映れるは、優しき春の朧月、いにしへの嵯峨の帝の手折りてし、野菊を活けて華の道、ここより始むるめでたさよ、花の寺にて咲き誇る桜の影に、君が代は千代に一度居る塵の、白雲かかる山となるまで、白雲にまがふ桜の花盛り、再びまみえんこと祈り、都をどりの舞ひおさめ、

背景 大覚寺

背景 大覚寺