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都をどりの歴史
第1回 都をどりの開催
明治維新による東京への遷都は、京都の人々にとり、このままでは衰退していくという危機感を抱かせるに充分な出来事で、 明治4年(1871)、京都府が設置され京都府知事に長谷信篤、副知事に槇村正直が任命されると、彼らは京都再建に奔走しました。
彼らが掲げた政策は、京都の町の伝統を保持すると同時に新時代に即応した近代都市を建設しよう、というものであり、その方法の一つとして、 博覧会開催の計画を立てました。
このとき槇村副知事は、博覧会に娯楽性を添えることを思いつき、祇園万亭(現 一力亭)の主人杉浦治郎右衞門に意見を求め、 春季の博覧会の附博覧(つけはくらん:余興の意)として、祇園の芸舞妓のお茶と歌舞を公開することにしました。
そこで、杉浦治郎右衞門は、祇園新地舞踊師匠の片山春子(三世井上八千代)などと共に、伊勢古市の『亀の子踊』などを参考に、 お座敷舞という形式ではなく集団での『舞』を考えました。
終始幕を閉めることなく背景を変えることで場面を変転させながら進める、という編成は、 極めて近代的かつ独創的な演出であり、こうして出来た『都』を名とする『都をどり』が、 明治5年(1872)、祇園新橋小堀の松の家という貸し席で行われました。
3月13日から5月末までの80日間、舞方32名 地方11名 囃子方10名 の計53名が、7組7日交替で出演しました。これが都をどりの始まりです。
また、明治博覧会に際して外国人が多く来るのを予想して、裏千家第11代家元玄々斎宗室宗匠が我が国で初めて、 立礼(りゅうれい)様式の点前を創案し、これに基づいて芸舞妓は、円椅子に掛けてお点前を披露しました。
翌明治6年(1873)には建仁寺の塔頭であった旧清住院の建物をそのまま利用するかたちで歌舞練場として第2回都をどりが開催され、大正2年(1913)に現在の場所に歌舞練場を新築移転し、毎年春に行うようになりました。
【昭和19年(1944)から6年間は戦争の為休演・昭和25年(1950)から3年間は南座にて公演】
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都をどり年表
明治 5年 | 3月13日~5月30日(80日間)祇園新橋小堀の松の屋にて第1回都をどりが開催される 踊子32名 地方11名 囃子方10名 合計53名が7組7日交替で出演 |
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明治 6年 | 歌舞練場にて第2回都をどり開催 |
大正 2年 | 4月 現在の地、歌舞練場にて、第44回都をどり開催 |
昭和 18年 | 第76回都をどり開催以後、戦争により6年間休演 |
昭和 25年 | 昭和 27年 |
3年間 南座にて都をどり開催 |
昭和 28年 | 第80回都をどり新歌舞練場にて開催 |
アーカイブ
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![]() 大正6年 第49回 都をどり 「菊花弥栄薫」 番組表表紙 |
![]() 大正14年 第57回 都をどり 「長久楽御代の壽」 パンフレット表紙 |
![]() 昭和3年 第60回 都をどり 「旭の輝」 パンフレット表紙 |
![]() 昭和13年 第71回都をどり 「旭光遍輝」第6景「雪の圓山」 舞台風景 |
![]() 昭和25年 第77回都をどり 「京洛名所鑑」 パンフレット表紙 |
![]() 昭和28年 第80回 都をどり 「謡曲六佳撰」 パンフレット表紙 |