かにかくに祭

かにかくに祭について

明治・大正・昭和にわたり文芸界で活躍した吉井勇の顕彰を目的として歌碑建立以降、毎年行われ、当初は吉井本人も参加し、「ぼくはこの日が一番うれしいのだよ。生きているうちから、おまつりをしてもらうのだからねェ」と語ったと伝えられています。祇󠄀園甲部の芸妓・舞妓による抹茶とお蕎麦の接待が行われ、和やかな雰囲気のなかで開催されていました。

お茶席では、磯田多佳の子息である磯田又一郎による「紅葉白川」の軸が掛けられ、新村出による賛「かにかくに京都はたのし吉井あり 山むらさきに自川もあり」も寄せられています。

昭和35年(1960)11月19日京都で吉井が没したのちは、ゆかりの人々が故人を偲びながら、白菊を供え、その功績を語り継いできました。

かにかくに祭について

お茶席について

これまでの「かにかくに祭」は吉井勇氏に所縁のある方々や、関係者に限ってのご案内とさせていただいておりました。しかしながら吉井勇氏の没後60年余りが経ち、ややもすれば人々の記憶も薄れる中、今年は一般の方々にも広くご案内を差し上げ、多くの皆さまにお越しいただきたいと企画いたしました。皆さまと共に「かにかくに祭」をさらに発展させ、秋の風物詩として未来へつなげていきたいと考えております。ぜひ秋の日、祇園白川へお運びくださいませ。

お茶席について

お茶席会場

京都市東山区大和大路白川東入ル ■京阪電車「祇󠄀園四条」駅より徒歩約8分
お茶席会場

歌碑について

碑は、堂本印象の構想により東山になぞらえた鞍馬石が選ばれ、昭和30年(1955)11月8日吉井勇の古希を祝して建立されました。建立にあたっては、当時の芸術院院長、京都市長、祇󠄀園甲部関係者をはじめ、志賀直哉、谷崎潤一郎、久保田万太郎、大佛次郎、里見弴、西山翠嶂、和田三造、堂本印象、新村出、湯川秀樹、大谷竹次郎、小林一三、井上八千代といった各界の文化人が発起人となり、朝日新聞社、毎日新聞社、京都新聞社、都新聞社、夕刊京都新聞社の各新聞社が協賛しました。

歌碑の建つ場所には、かつてお茶屋「大友(だいとも)」が所在し、女将の磯田多佳は文芸に秀で、歌碑の発起人をはじめ夏目漱石や高浜虚子、長田幹彦といった人々とも交流がありました。昭和20年(1945)3月戦時下の建物疎開により、白川北側の茶屋が取り壊され、「大友」もその憂き目にあいました。

同年5月、磯田多佳が終戦を前に逝去。谷崎潤一郎は「多佳女が亡くなつたばかりでなく、あの吉井勇の歌で名高い新橋の大友の家、――何十年来多佳女が住み馴れた、あの白川の水に臨んだ家までが、建物疎開のためにあとかたもなく毀ち去られた事實を知つた」と在りし日の祇園の面影と磯田多佳への別れの思いを記しています。

「かにかくに・・・」の歌は、明治43年(1910)に刊行された吉井勇の歌集第一作『酒ほがひ』の「祇園冊子」に収められており、かつて親しんだ祇園へのまなざしを今に伝えています。

お茶席について

献花される京舞井上流家元四世
井上八千代(愛子)師

お茶席について

お問い合わせ

〒605-0074 京都市東山区祇󠄀園町南側570-2
電話 075-561-1115(平日10時~17時)

(担当・山本)

  • 主催祇園新地甲部組合
  • 協力祇園新橋景観づくり協議会/元吉町町内会
【祇園新橋伝統的建造物群保存地区に指定されて50年】